تسجيل الدخول「それも、少し落ち着きません」
律は一度だけ目を細めた。「では、嬉しいというところだけ受け取ります」 私は黙って頷いた。 エレベーターの表示が一階を示した。 扉が開く直前、口元が緩むのを止められなかった。 律が気づいた。 私はすぐに正面を向いた。「見ないでください」「見ていません」 明らかな嘘だった。「今、見てました」「……訂正します。見ました」 謝られると、今度はこちらが困った。 扉が開く。 ロビーのざわめきが流れ込んできた。 人の声、靴音、受付端末の電子音。 短い会話はそこで終わった。 律は何もなかったように車椅子を進めた。 私はその隣を歩いた。 手は触れない。 さっきより歩幅を合わせやすかった。 榊の車に乗り込むと、窓の外は薄く曇っていた。 雨が降るほどではなく、ビルのガラス受付で香典袋を差し出す。 白い封筒の隅に、見覚えのある紋があった。 その紋を見た瞬間、受付台のざわめきが遠のいた。 守り袋の裏にあった、あの刺繍に似ている。 男が顔を上げた。 視線が、まっすぐ私へ向かう。 知らない人のはずだった。 知らないはずなのに、足が一歩も動かなかった。 律の手が、車椅子の肘掛けに置かれる。 相良さんの表情が消えた。 男は、ゆっくり歩いてきた。「如月静江様には、昔、一度だけお世話になりました」 声は丁寧だった。 丁寧すぎて、かえって息が詰まる。 隆一が慌てて近づいた。「九条様。まさか、ご弔問いただけるとは」 九条。 その二文字を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。 男は隆一に軽く頷き、けれど視線は私から動かさなかった。「こちらの方は」 隆一が答えるより先に、律が言った。「朝霧栞さんです」 男の目が、細くなる。 それは笑みではなかった。「朝霧」 ゆっくり、確かめるように繰り返す。「そうですか」 私は何も言わなかった。 言葉を返したら、何かを掴まれそうだった。 男は一歩だけ近づいた。 焼香の匂いと、濡れたコートの匂いが混ざる。「よく、似ていらっしゃる」 誰に、とは言わなかった。 焼香の列のざわめきがふっと薄くなった。 私はバッグの奥の守り袋を意識した。 男の視線は、私の顔から離れない。「失礼。初対面で言うことじゃありませんでしたね」 そう言って、男は名刺を差し出した。 九条康生。 白い名刺の文字が、やけに濃く見えた。 受け取るか迷った瞬間、律が低く言った。「弔問の場です。名刺交換は、後日に」 康生の指が止まる。 ほんの一拍。 それから、名刺はゆっくり引っ込められた。「榊様は、相変わらず慎重でいらっしゃる」「
言葉はそこで止まった。 正しいとも、よく言ったとも言わない。 私は前を向いた。 祭壇には、祖母の写真が飾られていた。 病室で見た顔より少し若い。白い髪をきちんと結い、背筋を伸ばしている。私が如月家にいた頃、よく叱られた時の顔に近かった。 お焼香が始まる。 隆一、琴美、未央。 未央は泣きながら立ち上がった。動きがきれいだった。誰が見ても、悲しむ孫に見える。 香をつまむ指も、涙を拭う手も、少しも乱れない。 私はその後ろ姿を見ていた。 未央は振り返らない。 ただ、親族席へ戻る時、私の隣に置かれた律の名札を見た。 顔が小さく歪む。 悲劇の孫でいるための場所に、私が座っている。 それが未央には耐えられないのだと、分かった。 私の番が来た。 足元が頼りない。 律が動こうとした気配があった。 でも、手は伸びてこなかった。 私は一人で立ち上がる。 焼香台の前に進むと、抹香の粒が小さな山になっていた。 端をつまむ。 軽い。 こんなに軽いものを落とすだけで、人は別れを形にしようとする。 香炉へ落とした瞬間、白い煙が細く上がった。 祖母の写真を見た。 栞は栞でいい。 もう声は聞こえない。私は写真の前で、しばらく頭を上げられなかった。 席へ戻る途中、琴美と目が合った。 琴美は泣いていた。けれど、私が近づくとハンカチを握る手が止まる。「栞……」 名前だけだった。 私は立ち止まった。「今日は、祖母を送る日です」 琴美の唇が震えた。「それ以外の話は、後日にしてください」 焼香の列がいったん途切れ、受付係が香典帳の頁を整えた。 優しくは言えなかった。 でも、乱暴にも言わなかった。 琴美はゆっくり頷いた。 未央がその横で、ハンカチを強く握った。「お母様、今は…&hel
「待ってください」 声を上げたのは、未央ではなかった。 隆一の弟にあたるという男性だった。名前は、顔だけを何度か見たことがある。三年前、私が追い出される時には、何も言わずに廊下の奥から見ていた人だ。「その席は親族席だろう。彼女はもう如月じゃないはずだ」 その言葉を受けて、親族の何人かがこちらを見る。 琴美が小さく息を呑んだ。 隆一は祭壇の前で僧侶と話していたが、その声に振り向いた。 私は、札の上の自分の名前を見た。 朝霧栞。 如月ではない。 それは私が選んだことだ。「ええ」 私は答えた。「如月家の人間じゃありません。もう」 ざわめきが広がる。 未央の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 私は続けた。「でも、静江さんに最後まで名前を呼んでもらった者です。今日ここにいる理由は、それで足ります」 男性の眉が動いた。「生意気なことを。育ててもらった恩も忘れて」「育ててもらった」という言葉に、昔の癖で肩がこわばった。 育ててもらった。 その言葉は、昔なら逃げ場を塞ぐ縄だった。 でも今日は、少し違った。「恩を忘れてないから、来ました」 私は声を落とした。「売られた記憶まで、恩にはできません」 周囲のざわめきが引いた。 言いすぎたかもしれない。 けれど、言った後の後悔はなかった。 隆一の顔が灰色に近くなる。琴美が口元を押さえた。未央は、一瞬だけ泣く顔を忘れた。 その時、車椅子の小さな車輪の音が聞こえた。 律が、式場の入口から入ってきた。 今日も黒い仮面をつけている。 黒い喪服に黒いネクタイ。顔の半分を覆う黒い仮面。けれど会場の誰もすぐには声を出せなかった。噂の怪物当主としてではなく、榊グループの当主としてそこにいる。その事実が、場のざわめきを飲み込んだ。 律は私の隣で車椅子を止めた。「お話の途中、失礼します」 声は短く、しかし場を遮るには十分だ
焼香の匂いは、病院の消毒液よりもずっと柔らかいはずだった。 葬儀場の厚い絨毯が、靴音を吸い込んだ。 それなのに、息の奥に残ったまま離れなかった。 黒いワンピースの袖口を、私は膝の上で一度だけ摘まんだ。布は新しい。榊家の者が昨夜のうちに用意してくれたものだ。サイズは合っていた。動きにくくもない。 けれど、喪服の黒は、体に馴染むまで少し時間がかかる。 葬儀場の控室には、親族用の白い札が並んでいた。 如月隆一。 如月琴美。 如月未央。 その列の端に、一つだけ違う札が置かれている。 朝霧栞。 隣には、榊律。 札の前で、足が止まった。 如月の列から外されている。けれど、弔問客の端に追いやられているわけでもない。白い札は、親族席の一角に置かれていた。 誰かが決めた席順だ。 たぶん、律だ。「位置を変えますか」 背後から相良さんの声がした。 いつも通り静かな声だったが、今日はわずかに低い。喪服の黒いネクタイがきちんと結ばれている。相良さんは、手にした進行表を胸の前で伏せていた。「いえ。ただ、少し驚いただけです」「……でも、助かります」 相良さんの目が、下がった。「では、そのままご案内いたします」 私は頷いた。 葬儀場の廊下は、昨日の雨をまだ少し残していた。参列者の傘袋から落ちた水が、床の端に薄く伸びている。足を滑らせないよう、ゆっくり歩いた。 式場の入口に近づくにつれて、声が増えた。 親族の小さな挨拶。受付で名前を書く音。香典袋を差し出す時の紙の擦れ。誰かがすすり泣く声。 その中に、未央の声があった。「祖母は、最後まで家族のことを心配してたんです」 涙を含ませた、よく通る声だった。 私は足を止めなかった。「ずっと、私たちを見守ってくれていて……本当に、優しい祖母でした」 受付脇で、未央が親族らしき年配の女性にハンカチを押し当てている。喪服姿は
そして、静かに時刻を告げた。 祖母の手は、まだ温かかった。 それが、いちばん残酷だった。「……おばあさま」 呼んでも、返事はなかった。 私は泣き声を出さなかった。 声を出したら、手を離してしまいそうだった。 白い壁に、午後の光が薄く広がっていた。 琴美が崩れるように椅子へ座り込む。隆一はベッドの足元に立ったまま、唇を動かしていた。何か言おうとして、何も出てこない顔だった。 律は、扉の外にいた。 約束通り、入ってこなかった。 私はゆっくり祖母の手をシーツの上へ戻した。 指を離すまで、何度もためらった。 田辺さんが、白い布を用意する。 その布が祖母の顔へ近づき、私は反射的に声を上げた。「待って。まだ、隠さないで」 声が出た。 みんなが私を見る。 私はバッグから守り袋を取り出した。保全袋の中に入れたままだから、直接は触れない。けれど、その色だけは祖母にも見えると思った。「これを、見つけました」 祖母にはもう見えない。 それでも、私は言った。「ちゃんと、取り戻しました」 田辺さんが視線を落とした。 琴美がまた泣いた。 隆一は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。 白い布が、祖母の顔に静かにかけられた。 病室の時計だけが、変わらず進んでいた。 廊下へ出ると、足元が少し沈むような感覚がした。 律がそこにいた。「朝霧さん」 その声を聞いて初めて、病室の外へ出たのだと分かった。「……泣けないんです」 口にすると、自分でも驚くほど平らな声だった。 律は答えるまでに間があった。「今じゃなくても、いいでしょう」「……あとからでも?」「さあ。あとから来るかもしれないし、来ないかもしれません」 それ以上の言葉はなかった。 背中に、壁の
なのに今聞くと、初めての言葉みたいに胸へ沈んだ。 廊下の向こうでワゴンの車輪が鳴り、消毒液の匂いが病室の隙間へ薄く流れ込んできた。「誰が何を言っても。血がどうでも。家の名前がどうでも」 祖母の指が、私の手の中で少し動いた。「誰かの代わりじゃない」 祖母の手を包む指に、力が入った。「……おばあさま」「隆一には、負けなくていい」 その名前だけが、酸素の音の中にはっきり残った。 祖母は目を開けなかった。「会社のため、家のため。あの子はずっと、そう言ってきた。でもね、栞」 酸素の音が大きくなる。「……人を使ってまで残すものじゃないよ。家なんて」 扉の外で、何かが小さく動いた気配がした。 田辺さんが振り返る。ガラス窓の向こうに、隆一の影が見えた。琴美もいる。いつ来たのか分からない。 祖母の声が、もう一度細くなる。「戻らなくていい」 私は祖母の手を握ったまま、頷いた。「戻りません」「でも、恨みだけで、生きないで」 握っていた祖母の手が、急に重く感じられた。 祖母は、私の痛いところをいつも一度で当てる。「腹が立つなら、腹を立ててなさい。泣きたいなら泣けばいい。でもね……それだけで終わらないで」 私は何も言えなかった。 涙が落ちる。 手の甲に当たって、祖母の皮膚を濡らした。「ごめんなさい」 なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。 会いに来るのが遅かったこと。 もっと早く守り袋を取り戻せなかったこと。 祖母の知っていることを、今この場で全部聞きたいと思っていること。 どれも、たぶん本当だった。「謝るのは、私の方」 祖母が言う。「それから……」 田辺さんが少し身を乗り出した。 祖母の呼吸が浅くなっている。「封筒を、預けてあるの。田
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







